小さな儀式、個人的にやる儀式が
わたしは存外に好きなのだと
実感しています。
行というのは個人の
身体やそこに宿るものに奉じる儀式であるとか
なんとなくそんな感覚が最近はあります。
大きな儀式への興味は
他の人よりも少ないのかもしれない
けれども、その大きな儀式の記憶が
毎日の小さな儀式の礎になっている
ということも感じています。
大きな儀式の、共有する祝祭が
ひとりになったときにより生きてくる
他の人にとっては違うのかもしれない。
大きな儀式への感性は
弱い方だと思います、
周囲の反応を見ていて
たくさん感動する周囲を見ていて
すごいなとただ観察する目と
羨ましいという気持ちと、
戸惑いや冷めた視点と、ぜんぶあります。
いわゆる「丁寧な暮らし」は
わたしにはきっと向いていないけど
(細かいことへの興味は決定的に欠けている)
小さな儀式を身体に染み込ませて
何度でもその広がりを思い出して
体感することが
わたしの豊かさで
歌もそうした一部なんだなと
この頃しみじみ感じています。
*
地声が伸びるようになってきて楽しい
という話はここでも書いた
かと思うのですが
今はその声のひろがり
というところを見ています。
バウルの声は、割に
バーン! と弾けるように
溢れるように出てくる感じ
なのですが、
ものすごく柔らかい広がりというか
浸透する輪郭のようなものというか
が、あって
ただ地声で歌えた~というだけだと
その声にはなれていないし
自分でもなんだか窮屈なので
この声の裾野、広がりや
膨らみがもっと分かれば
もっと自由になれそうだなと
試行錯誤しています。
※
ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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