ふと腑に落ちたのは、
わたしは全てを
自分の思う通りにしたかったんだ
ということで
この間個展に来てくれた、
幼馴染のおばさまが昔 話してくれたことで
「ともちゃんはね、
落ちたごはんを掬いたくて、
できないから他の大人がやると
ギャーッて泣き出したりしてたんだよ」
という話があった気がするのですが
(すごくうろ覚え)
いわゆる三つ子の魂百まで
というやつで
根本的にはそこから変わっていないのだな
という 発見というか 諦め……。
(笑うところです
というか、やっと笑えるぐらい
成長したのかもしれません)
誰かの助けを借りて思い通りになっても
きっとわたしは満たされなかったのだろう、と。
誰かの助けを借りて嬉しいのは、
思いもかけないことが起こったとき
予測もしなかった素晴らしいものが
実現したときで
そうでないことは、
わたし自身が無意識とか潜在意識とか
そういう領域で拒否してきたんだろうな。
久々に、と言ってよいと思うのですが
色々な人に(私の予測しえなかったところで)
敬遠されている気分に陥って
(嫌われている、とまではもう思わない)
自分が発した色々な言葉が気になって
それは、鈍器になったのかもしれないし
あるいは誰も何も気にしていない
のかもしれないし
どちらもありえそうな、曇り空の塩梅。
反省するところは普通にしますし
わたしは自分がなぜそこに至ったかを
割に理詰めで詰めるというか
内観と言っていいのか、
するほうなのですが
ひとつ、
最近一周まわった感があるのは
理屈や頭の理解は置いておいて
「良い状態」のインストール的なもの
を、感覚的にすること
わたしにとっては、
より具体的に、背骨が立つ感じとか
ちょっと細々とあったりするのですが
でもざっくりすると、
「良い状態」を降ろす
ふつう世の人が瞑想するときには
そもそもこういうことをしている
のかもしれませんが
わたくし半端に器用なもので、
あんまりそこまでならなかったのですね。
(頭の半分を止めて
頭の半分を動かすぐらい朝飯前。
この感覚わかる方おられると思うのですが……
逆に観察は止まらずできる。
そこまで含めて捧げるぜ、みたいになる)
でも
「この状態だと、不必要なウジウジは
彼方に去る」状態
が、意識的に再現できるようになりました。
それで、冒頭の話に戻るのですが
すべてを思い通りにしたいから
誰にどう思われているのか気になる
という側面があったことに気がつき
誰にどう思われるか怖い
という卑屈さ引き攣りがあるから
他人の動向が気になり
あとで気になるような言動が出る
という面もあるよなと
自分が思っていたよりもずっと、
他人の言ったことや
他人の視点や世界観に影響されて
左右されてきたし
(昔「入られやすい」と言われた時は
全然そんな気はしなかったけれど)
それもある程度は、
自覚して受け入れていたけど
やっぱりわたしは、自分の目で
透徹に見たものを、
そのまま反映したい。
この「他人の視点に左右されない」を
先ほどの「良い状態」に合流させたら
ちょっと、だいぶ、
また変わりました、ような気がします。
楽になった、という形容が
合っているのかは分かりません。
少なくとも自分のコンディションは
すべて決めるという、
ある面では、極端な覚悟だから。
でも楽になりました。
最近、既にその兆候はあったのですが
人との話し方が、
今後変わるのかもしれません。
寂しい気もするけど、
やっと前に進めた感があります。
*
このところ、
『9つの人生』を通して
わたしの名前を認識してくださっている
方々と出会うことが続いて
また、尊敬する方が
わたしの文章に、存外の信頼を
置いてくださっていることが分かったり
あの本がわたしに
もたらしてくれたものの大きさを
実感しています。
※
ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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