バウル 風狂い 瘋癲
吟遊行者
東インド地域、ベンガル地方
インドの西ベンガル州と
バングラデシュ(東ベンガル)にまたがって
伝えられている修行の伝統
「人の身中にすべてがある」
とし、
師への信が核にある
特定の教典を持たず
師から弟子へと伝えられてきた歌
そして現代も行者たちによって
書かれ続け
あるいは即興で歌われる詩をよすがに
口伝と師弟継承のみによって
独自のヨーガ行を伝えてきた
遊行の行者たち。
「アノンデ・タコ よろこびの中にいなさい」
と言う。
村々の家をまわって歌を歌い
物乞いをする、托鉢の芸能民であると
思われることも多いが、
本来的には行者であり、
歌われる詩はその教えや体験を語る
行歌である。
仏道の後期密教や
ヒンドゥーの中でもナータ派(シヴァ教)、
シャークタ(女神派)、
ヴィシュヌ教ラーダークリシュナ派
そしてスーフィー(イスラーム神秘主義)
の流れを受け継ぎ
強いコミュニティ性を持ちながらも
各自それぞれに動き
ひとりが複数の師に就くこともあるため
そのありようは一様ではない。
有名なラロン・フォキルの詩
「籠の中の鳥」では、こう歌われる
籠の中の未知の鳥
どのように行き来する
もしも捕まえられたなら
心の枷を、その鳥の脚に付けるのにラロン・フォキル(パロミタ訳)
未知 Ochin とは、
いることは知っているのに
見たことが無い、会ったことが無い
ということ
鳥は己の心とも、魂とも、
あるいは いのちそのものとも
理解することができる。
バウルの詩はこのように、
平易な言葉づかいでありながら
「黄昏の言語」と呼ばれる、
隠喩にみちた表現で歌われる。
その意味するところは、
バウルの行に取り組んできた者にしか
本当には理解することができないし
単一の意味の層しかないとは限らない。
物乞いも、生活の糧である以上に
行や奉仕の文脈の中にある。
歌と舞は
その行の表現の形のひとつであり
共有と祝福の手段でもある。
バウルの舞には振付は無く
行を積んだ者にしか出せない特徴はあるが
そのときその時に、
湧き出てくるがままに舞う
即興的なもの。
経済社会の現代において、
農村社会の基盤も弱まり
バウルのあり方も変化しているが
だからこそ、行者としてのバウルの
伝統を繋ぎ伝えていく努力がされている。
バウルの挨拶でもある
ジョイグル、は
字義通りに訳せば「師に勝利を」となるが
師にも師がいて、その師にも師がいて
それぞれの中の師は、
つまりすべての源へと繋がっている。
私たちがやって来た源……
分かたれた個の私たちではなくて
その本質がいつでも
私たちの中に、この世界に
活きて、満ちて、輝きますように
という祈りの言葉が
ジョイグル、だと言える。
パロミタ友美の師匠は
パルバティ・バウルです。
その師匠はショナトン・ダス・バウルと
ショシャンコ・ゴシャイ。
バウルについては、
ブログの開設当初から色々と書いていますが
私自身の理解もどんどん変化していて
特に、ここ2、3年での
成長ぶりは、我ながらかなり大きい
(という気がする)ので
過去の投稿がどこまで信頼に足るものか
自分でも心許ないのですが
「バウル」のタグや、「ヨーガ」のタグでも
関連のことは色々と書いているので
ご関心の方はご覧ください。
また、パロミタ友美の公演等については、
こちら↓をご参照ください。









