わたしは自分の、
揺れやすい感情だとか
不安定の中に安定を見出す心性が
意外にというか、
割に好きなようで
だからこそ、
茨木のり子の『汲む』という詩が
好きなんです。
(ぜひ検索してみてください、
生牡蠣のような感受性)
最近はそういう揺れやすさを
割に固定しようと
しているところが
あったかもしれません。
強くなろうとすることに
傾きすぎて。
強くあることは大事なことです、
行者にとって。
バウルはビール=ヴィーラ「戦士、英雄」
慈悲の戦士だと教わってきました。
でも強さとは何か、が
問うべきところ。
*
最近、風景が妙に
輝いて見える日が多くて
単に春だからということなのか
何かわたしの精神が
やばいことになりかけているのか
どちらだろうと思うところが
あったのですが
どちらもある気がしてきました。
というのは、何年も前に
どうしても休む暇は取れなくて
荒療治的に鬱を寛解させたことがあって
その日に見えた世界の輝きは
後から思うと
一種の躁状態だったのかも
と思うところがあるのですが、
ちょうどこういう感じでした。
(荒療治だったので、
数日したら「前よりマシ」
程度に落ち着きましたが)
でもまあ、
いまのところ、
少なくとも数日、もっとかな
こういう感じで
その間気持ち自体は
落ち込んだり、
眠れなかったり起きられなかったり
というときも間にあったので
たぶん、
ベースのコンディション自体が
変わったのだろうと思います。
久々に読んだ漫画の景色が
妙に立体的に
立ち上がってきたりもしたし。
あと、春なので。
春の陽気で景色は
七割り増しぐらいになる、
そもそも。
*
で、そのコンディションが
まともかと言うと、
ちょっと分からないところがあります。
結局のところバウルは
「狂い」であり、
「いかれている」ので
向かう方向が
世間とは逆さまになる方が
むしろ自然なのかもしれません。
たとえば瞑想や坐禅を
普通は、日常を送るための
薬や休息のように
用いるのだと思います。
わたしがしようとしているのは、
瞑想や坐禅の状態こそを
わたしの日常であり
常の状態にすることです。
歌舞いのときはその極地、
身体を神殿にするおこない。
でも濃度の差はあれ
いつもそこに至る
状態を保っていること。
(理想の話ね、
わたしの現在位置ではなく)
*
それでわたしは今改めて、
祈りということを考えています。
他者への祈り、
世界への祈り。
自分の行き詰まりを
解消してやっとそこに
戻って来られるのは
わたしが未熟で至らないからに
ほかなりませんが
ローカーハ・サマスターハ・スキノー・バヴァントゥ
という有名な一節がありますが
サンスクリット語で
「世界に生きるあらゆるものが
健やかでありますように」
そういえば、唱えていたのに
やっと実感のある言葉として
震わせることができます。
※
ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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