🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

いとしき隣人たち〜「インドの樹、ベンガルの大地」を読んで

「インドの樹、ベンガルの大地」(西岡直樹著、講談社文庫)
を取り寄せたのは、
少し前にSNSで流行っていた
ブックバトンで誰かが紹介していたからで、

何となくピンと来ただけだったのだけど、
私はすっかり夢中になってしまいました。

普通 文庫本だったら1日足らず、
長くても2、3日で読み切ってしまうけど、
一々噛み締めながら読んでいたら
数週間かかってしまいました。

ここに描かれているベンガルでの体験は、
私の知るベンガルよりも
おそらく30年ばかり昔の事で、
今よりも更に素朴で牧歌的だったように
思われますが

それでいながら、私自身の体験とも
あまりにも反響して、
ページをめくる毎にジンワリと
呆けてしまうところがありました。

たとえば、友人宅の近所のお婆さんが
よく見かける物乞いだったと分かって
一体自分はどのような態度で
接しただろうかと不安になってしまう事や

友人にまるで家族のように受け入れられ
また、当たり前「すぎる」ぐらいに
心からの親切を他人にかける人々の
何気なさに胸を打たれたり

逆にきつい口調のおばさまやお婆さん達の
それでもどうしてか溢れる純粋さに
覚える愛おしさ。

それらがベンガルの土地、木々、気候
全てあいまって
郷愁として胸を締め上げて来るのです。

 後ろのほうを見ると、やねの半分くらいまでトウガンのつるが覆っていた。母屋の屋根と料理小屋の屋根の間の谷のようになったところにはとくによく葉が茂り、その葉陰にひとつだけ大きな実をむすんでいるのを見つけた。実がなっている光景はなぜか、人を収穫の誘惑にかりたてる。家主さんが植えたのだろうか。家主さんはカルカッタに居てめったに来ない。だれが植えたにしても、こんなところに実がなっていることなど気がついていないだろう。私たちはそう決め込んで、その実をとることにした。あたりを見回し、クマルに手をつかんでもらうと、私は屋根の縁から手を伸ばした。もう少しのところで届かなかった。そこで今度は右足でやってみた。うまくへたのところを足の指ではさむことができ、重たい実を引き上げることに成功した。その夕食に食べたトウガンのカレーの味は格別だった。
翌日ロトナの母親がこわい顔をしてやってきた。
「ベンガルじゃトウガンは盗んでも罪にならないと言うから、まあ、言いたくはないけれど、あれは私が植えたものだ」
私は、まさか……と思った。それを知っていたら決してとらなかっただろう。だれにも見られていないと思ったのに、ちゃんとオモルが見ていたのだ。いくら叱られても子供はやはり母親の味方なのだ。ここでカミナリを落とされたらどうしようかとひやひやしたが、思いのほか、彼女は冷静だった。
隣の人が私たちの庭に種を播き、そのつるを私たちの家の屋根にはわせ、そこになった実の所有権を主張するというのはちょっとおかしいようにも思った。だが、彼女との口論に勝つ自信もない。とにかく謝った。
その日の夕方、私はカルカッタの帰りに市場でトウガンの立派なのを見つけた。私はそれを買って帰ると、さっそく詫びのしるしにロトナの母親のところにもって行った。
ロトナの母親は言った。
「なんのまねだね、これは……。私はこんなことして欲しくて言ったんじゃあないよ。あれはね、食べるためじゃない。種を採るためにとっておいたんだよ」
その声は怒りを嚙み殺したようにも、泣きそうにも聞こえた。
トウガンのようなとるに足らないものをわざわざ買って返そうとしたことで、かえって彼女を傷つけることになってしまった。私は配慮が足りなかった。靴を履いた者が裸足の人の足を踏んでも、踏んだ方は気がつかないし相手の痛みもわからない。それと似ているような気がした。私は彼女にほんとうに悪いことをしたと、今でも思っている。

「インドの樹、ベンガルの大地」(西岡直樹著、講談社文庫)P84-86

かの地の人々に親しみと
心からの尊敬を持ちながら
同時に、先進国から来た人間としての戸惑いや
それゆえの傲慢や引け目を常に
自分自身にどこか問いかけつつ、
ただ身を浸し、自分の身体で確認していくしか無い。

何と言っても本書の特徴は
植物の詳細な描写にあります。
私などはこういった事に不勉強だから、
「あの花に、木に、こんな意味が! こんな物語が!」
と物凄く勉強にもなります。

そして植物を含め、差し挟まれる挿絵が
何とも美しいのです。

この本を読んでいると、
著者の西岡氏はまるで
男とか女とかとはまた別の次元で
私と同じ性別であるように感じられます。

もっとも、調べてみると
一部で熱烈なファンがいるようであるから
そのように感じるのは
おそらく私だけでは無いのでしょう。

ある駅でのエピソードで、

 私は同行の三人から少し離れた人の少ないところに立って本を読みはじめた。気になる視線を感じて目を上げると、眼鏡をかけた中年の男がなにか珍しいものでも見るように私を見ていた。その人と目が合った。しかしその人は少しもはばかることなく、正面に立って腕組みをしたまま私を上から下までじろじろ見ている。それがすむと、今度は私の側面にまわって横からながめはじめた。いったいこの人はどういうつもりでこんなにもぶしつけに人をみることができるのだろうと思って、私は苦笑しながら、
「こちら側からもごらんになりますか?」
と言って、くるっと回ってみせた。
その人は、はっと気がついたように真顔になって、それからばつが悪そうに顔をくしゃくしゃにして合掌しながら言った。
「これは失礼しました。気になさらないでくださいよ。どこの国の人かと思いまして、つい……」
その笑顔に人のよさが表れていた。私は、ちょっとやりすぎた。あんなおちょくったようなやり方はいけなかったと反省した。でもその人に悪気がなかったことがわかったのはよかった。そうでなければ、私はその中年紳士を外見で人を値踏みする嫌な上流意識をもった男と思ったままでいただろう。それからその人としばらく話が始まった。
その人は、かつていろんな外国船で働いたことがあって、日本の船でも働いたことがあると言う。それで私を何人かと思って見ていたのだそうだ。国によって気質もさまざまだが、日本の船とロシアの船では気持ちよく働けたという。日本人は位の上下にとらわれず分け隔てがなくていっしょに仕事をするのがいい。あれは私たちも見習わなくてはいけない、と熱を込めて言った。

「インドの樹、ベンガルの大地」(西岡直樹著、講談社文庫)P158-160

ほんの小さなエピソードだけれど、
著者の人柄と本書の特徴が
よく表れているように思います。

西岡氏はおそらくベンガル語が
べらぼうに堪能で、
学生として数年間、
ベンガルに住んでいらして
その後も何とかベンガルとの繋がりを
保とうと努めながら
仕事を作ってきた方です。

だから彼は居住者でありつつ
時に旅人であり、
そしてもちろん異邦人なのだけど
どこかベンガル人として
受け入れられてもいる。

たぶん、引用したエピソードは
男性だから可能な部分もあり
私が「若い女」というカテゴリーに含まれるうちは
どうしても、もっとずっと
慎重にならざるをえません。

それでも、私もこのようでありたい、と
懐かしさと憧れと共に
身が引き締まるような思いもするのです。

この一冊を読んだだけで
何だか一方的に、西岡ご夫妻を
親戚のように感じてしまっています
(ただの一度の面識も無いのに)。

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