たとえば仏教で浄土と言ったら
具体的に「この地域が浄土」ということはなくて
天竺だって、何世紀も「たどり着きえぬ桃源郷」
のような位置付けだったわけで
そこでは「浄土」は
肉体的な外側の話には
なりえない、ところがある
と思います。
(もちろんニライカナイをはじめ
そういった方向や概念はあっても
ただ肉の身では辿り着けないことが
前提になってくるのではないでしょうか)
ですがインドの場合は、
楽土とされるヴリンダーヴァナという
クリシュナが育った土地さえも
具体的な、受肉した地域があり
そこに行けば神話の舞台の地名が
実際に息づいているわけです。
その点で、神話は
“外側”にも“内側”にもなりうる。
それが強みであり、美しさでもあれば
同時に、混乱の要因にもなりうる
のだな、
というあたりなどが
今回、自分の中で整理できました。
わたしは幸いなことに、「視えない」ので
分かることはあったとしても、
無分別には引きずられにくく
逆にというか
内側の中心を強く持ちやすいのだな、
とも思ったり、しました。
バウルの歌を、
いかに内面化し、内在化するか
というところがいくらか、
明確になって
そしてたぶんそれによって
「詩の視覚化」が
前よりもできるようになってきました。
内に向かうことが
どうして強調されるのかというと、
本来、内と外とは
境が引けるものではないからこそ、
という逆説的なことなのかと
思ったりもします。
外側だけに引っ張られると、
うっかり外「だけ」になり
内を切り離してしまいやすいのかも、とか。
生身の人間のグルをいただくグル・ヨーガが
最も基本的でありつつ
最も難しいとも言われるのは、
まさにそのためでしょう。
*
グル・クリパー(グルの恩寵)ということを
あるいは、もしかしたら
わたしは難しく考えすぎていて
ただ「おかげさまで」というぐらいの感覚で
捉えて良いのかもしれないし、
そうすべきなのかもしれないと
思ったりもします。
だけども「グル・クリパー」には
「おかげさま」よりももう一層、
狭義の深さというか、
突くべき核のような源泉がある気がして
まだ一歩、腑に落ち切っていません。
ほんとうに納得して腑に落ちたときこそ
当たり前に使えるようになりたい。
*
バウルの歌は、習うだけなら
ただその歌を歌うだけなら
誰にでもできるし
歌が上手い人は世界にいくらでもいるけど
本当にバウルの歌を歌うことは、
並大抵のことではない
と分かってきて
と同時に、
あ、わたしはちゃんとこの道に入っている
バウルの歌を歌う道にある
バウルの歌に踏み入っている
と認識できるようになりました。
なので、改めて
バウルの歌で、ちゃんと
やっていきます。
※
ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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