先月末のプージャーでの
「バウルの歌と話の会」には
ベンガル出身の方も
いらしてくださったのですが
ある種のことは、
ベンガル人の方が通りが良い
という体験も、
この頃は出てきました。
日本語の方が通りが良い
ことがあるように、
ベンガル語の方が通りが良い
こともある。
言語に内在する、というか
埋め込まれた感覚や
了解のようなものがあって
その言語に
深く潜れば潜るほど
伝わるものも
大きくなる、という面も
あるのかもしれません。
だからこそ、
昔はあれほど、日本で
日本人と話すのが苦手だったのに
いまはむしろ
ある種、絶対的な自信がある。
もちろん、人間なので
それぞれに異なる理解や
記憶はされるものなのだけど
それでも、ある程度以上は
日本人と日本語なら
「繋がる」ことができるという
自負がある。
(でなければ
翻訳などやっていませんねハハハ)
バウルに関わるような
魂や霊性の話は
やっぱりベンガル人は
伝わりやすいですね、
都会の人でも。
魂や霊の話、なんて書いたけど
バクティとかセーヴァの話なんですが
日本語にすると
たとえば信仰とかね、奉仕とか
一般的に抵抗を生む言葉に
なってしまって、
どうも難しい。
それを翻訳なしにやりたい
というのが、
『おまもり歌』だったりもします。
「バウルの歌と話の会」では
詩の詳細をかなり
一文一文見ていったりします、
と言っても紙なんか無くて
わたしが記憶と感覚から
ペラペラ喋ったり歌ったりします。
表現の詳細からしか
分からないものがある、
と実感しているので。
たぶん、
その人が言語に深く降りていった
ということは、
人は直観的に分かるのだと思う。
そのことに感動や
敬意をいだくのは、
たぶん自然なことなのでしょう。
ベンガル人の方が
圧倒的に伝わりやすいのに
日本で伝え続ける意味は?
と、思わなくもないが
やっぱり、そこを繋げる
ということを、
体現していきたいのだ
とも思うのです。
そこに、何かとても本当のことが
あるように思われるので。
※
ジョイグル
(バウルの挨拶
「あらゆる命が本来に輝きますように」)
今日も明日も良い日でありますように。
パロミタ
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