🟡 3/29(金)『女たちの音づれの夕べ~パロミタ友美・佐藤二葉の二人会』 🟡

インドの山での沐浴で生まれ変わった話

日本での生活

大学入学と共にオーストラリアに旅立った時、
日本に戻るつもりはありませんでした。
しかし18だった少女の考えも大学で4年過ごせば変わるもので、
大学の優等学位を終えた私は、日本に戻って
2年ほど、学習塾でアルバイトをしつつ、未来の事を考えていました。

元々、学者になろうと思っていたのですが、
優等学位で論文を書くのに疲れ切った事もあり、
しばらくは日本でフリーターをする事にしました。
大学の友人には似たような事をしている人が多かったです。
オーストラリア人だと、海外でボランティア、という場合が多かったかな。

それでも結局、他の道は無いかな…ということで、
日本で大学院に行く事にしました。

3年ぶりのインド再訪

10代で日本にいた時、私は日本が好きではありませんでした。
元々帰国子女だった事もあって、
保守的で、差別的で、窮屈な国だと感じていました。

それが、オーストラリアでアジア人を数年やっていると、
「どこも一緒だ!」という事に気がつかざるを得ませんでした。
長期休みに一時帰国した時、アルバイトをしてみて
「日本でもやって行けそうだ」と感じたので、
卒業して帰って来る事にしたのです。

ところが、2年も日本にいると、また疲れて来ます。
別に移住しなくたっていい。
たまには外に行かないと呼吸困難になってしまう。

そういう事で、大学院の受験をつつ、
私は3年前に訪れてひと月過ごした、南インドのケーララ州を再訪する事にしました。

それから、当時私は、その3年前に初めて訪れたインドで学び始めた
南インド古典声楽を何とかして続けたかったのですが、
日本にいてはどうしても難しかったのです。

それで、大学院に入る前にもう一度行って集中的に学びたいな、と思ったのでした。
この時もひと月の滞在。2011年3月のことでした。

意外と日本が恋しい

インドに行ってみると、割とすぐに日本が恋しくなりました。
それを確認できたから、日本に拠点を置くという事で、
より落ち着いて生活できるかな…とすら思ったものです。

しかし段々、馴染んで来ます。
緑に溢れた土地。
文化は好き。
言葉も少しずつ分かるようになって来ました。

鳥や栗鼠の声を聴きながら、
夜に縁側でただ座っていると、
ふととても安らいでいる自分に気がついて、
ああ、ずっと望んでいたのはこんな時間ではなかったか…
と思い出すのでした。

サーラングとの出会い

この時滞在していたのは、サーラングという人達の所。
実はサーラングは、環境・教育運動家でした。
この時は、町に近い所で伝統的な家を借りて、
外国人にインドやケーララの伝統文化を学ぶ機会を提供する…
というプロジェクトに取り組んでいました。

ここのお父さん(お祖父さん)、ゴーパーラクリシュナン氏が
私のマラヤーラム語[ケーララの現地公用語]の先生で、
授業の時に色々なお話をしました。

彼らの30年以上にわたる活動に耳を傾けると、
川まで干上がった山を再生させた事、
公教育に背を向けて、自分達の信念に基づいてその山で私塾を作り、
息子を育てた事。
その志に共感した人々が自分の子どもを預けるようになり、
一つの家族のように生活している事。
とても刺激を受けました。

そういえば私、昔は教師になりたかったのだった。
教員免許が必要だから大学に行こうかなと、
「高校行かない」と言っていたのを高校に行く事にしたのでした。
(母に「高校までは行ってほしいな…」と言われたという事も、ありますが)

このインド滞在の前後も、日本にいる間は学習塾で働いていたので、
教育の話は、とても胸に迫って来る問題でした。

川での沐浴[私のバプテスマ]

滞在中に、彼らの本拠地、ふるさとである
アッタッパディの山へ行く機会をいただきました。
いろは坂のような蛇形の道路をバスで上って行き
(もちろん酔いそうになりながら)
サイレント・ヴァレーとも呼ばれる山の上に着きました。

アッタッパディは、元々は西ガーツ山脈先住民の
先祖伝来の土地です。(彼らは今も住んでいます)

サーラングの土地は、その土地を所有していた貴族が
政府が国有地(州有地かもしれません)にするという情報を嗅ぎつけて、
その前にと土地をバラバラに切り売りしてしまったのだそうです。

無計画な開墾や土地の使用により、緑は枯れ、水も干あがろうとしていました。
そうして手放された土地を、教職を辞したばかりの若い夫婦が
借金をして買い取りました。

今でこそ緑深いこの山は、彼らに因んでサーラングと呼ばれていますが、
当時は木は五本しか生えていなかったそうです。
乾いた土地からは川も麓に移動してしまい、
元々いた農家たちも低地へと移っていきました。

そんな山を、ただひたすらに強い信念と
粘り強い取り組みで蘇らせた人々の話に、
私は深い感銘を受けました。

トイレも、ほとんどそのまま土に還すだけのような所です。
ある日、子供たちが川に水浴びに行くのに着いて行きました。
川の流れている所までずっと降って行って、
みんなで水浴びをするのです。
これが、ここでのお風呂でした。
とても原始的な、沐浴の形。
ハイビスカスの花で髪を洗いました。

ここで、川に身を浸して、再び顔を出した時。
何が起こったのか、自分でもよく分かりません。
ただ、今までのようには生きられない、と思いました。

これが私にとっての、一種のバプテスマだったのかもしれません。
私のインドとの関わりを決定づけたのは、まさにこの瞬間でした。

東日本大震災と大学院入学、日本での生活

サーラングの所に滞在していた時、東日本大震災が起こりました。
すぐには家族とも連絡が付かず、2〜3日はずっと
インターネットで情報を集めていました。
まとわりつく小さな蝿が、ひどく気になった事を覚えています。

幸いにして家族友人知人は皆無事だったので、
予定を繰り上げる事なく、数週間後に帰国しました。

震災後のどこか不安定なムードの中、
予定通り大学院に入学。

結論から言えば、私は半年にも満たない期間しか
大学院に通いませんでした。
あの頃はあんなに長く感じたのに、改めて思い返すと
本当に短い時間です。

この頃の私は、ケーララが恋しくて仕方なかった。
加えて、それまでオーストラリアの学生生活しか知らなかった事もあって、
日本での大学院生活が、予想以上に合わず、きつかったのです。

大学に向かう電車の中で気持ち悪くなり、
最寄駅に辿り着く前に電車から降りてそのまま動けない…
なんて事が、一度ならずありました。
当時は原因が分からず、とりあえず行ってみたレディースクリニックで
お医者さんの対応に嫌な思いをするなどありましたが、
今にして思えば、うつ症状です。

思い返してみると、研究内容自体、ハッキリしていなかった
という事もあると思います。
元々論理の構築が苦手だったという事もありますが、
更に学界への違和感なども大きくなるばかりで、
研究を続けるモチベーションも決定的に欠けていました。

研究はサンスクリット叙事詩に関わる内容で、
続けたいという気持ちもありましたが、
研究よりも、叙事詩が生きている世界を実際に生きたい、
という気持ちが強くなっていました。

無理やり一年で論文を提出して卒業してしまう…なども考えましたが
それすらも耐えられないという状態になってしまい、
「少しでも払う学費が少ない内に!」と、退学を決めました。
(実際には、とりあえず休学、という扱いになりました)。

ケーララに就職

この時はとにかくケーララに行きたかったので、
どうにかしてケーララに住める手段を考えました。

前述のように、南インド声楽ももっと学びたかった。
観光ビザで行って何ヶ月か滞在、というやり方もありましたが
私はもっと、持続可能な形をとりたかったのです。

それで、ケーララで仕事が出来ないかしらと
探してみたところ、
運よく就職先が見つかりました。
IT企業での、日本語講師の職でした。

働きながら音楽を学ぶ

8月に面接、就職が決まり、
雇用ビザの取得をほとんど自力で奮闘して達成し、
その年末にはケーララに飛びました。

念願のケーララだから、嬉しかったのですが、
働きながら音楽を学ぶ、というのは、
想像していた程やさしくはありませんでした。

インドでも企業はやっぱり企業で、
ままならない事だらけだったし、
州都トリバンドラムは「私にとってのケーララ」よりも
随分都会に感じられました。
(客観的に見ると、相当田舎です)

一年ほどは、週末のたびにサーラングに行って、
そこで音楽を学ぶ、というような生活さえしました。

元々ケーララの民俗音楽の方に惹かれていた私は、
古典音楽に取り組む事に迷いも生じて来て、
より土着の「ソーパーナム」という音楽系の存在を知るや
それを学ぼうと努力してみたのですが、
何だかうまくいかない。

パルバティ・バウルの噂を聞いたのは、そんな日々の中でした。

バウルとの出会い

パルバティ・バウルは東インドにある西ベンガル州の出身ですが、
パートナーのラヴィ・ゴーパーラン・ナーヤルの故郷
南インドのケーララ州に拠点を置いていました。
15年にも渡りトリバンドラムでバウル・フェスティバルを開催していたので
それに行った事のある私の当時の大家さんが、
彼女の話を私にしてくれたのでした。

この時、バウルの事など何も知らずに彼女に会いに行って、
ほんのこころみに数曲習ったところから、
結果的に一生続くバウルの道へと入って行く事になりました。

ある日習ったうたは、それまでの数曲とは違って、
かなり宗教的にもとれるような内容で、私はとても驚きました。

『向こう岸へ
私をつれて行って
一人では渡れない
あなたの慈悲なしには』
(ラロン・ファキール)

「ずいぶん、宗教ぽく見える歌ですね…」と
曲の率直な感想を伝えると、師匠は言いました。

「これは、どんなことに取り組む時にも必要な態度。
何かに取り組む時は、自分の身を捧げて取り組むこと。
普通の人は、何かが起きた時、怒りや悲しみを目の前にいる人に向ける。
行者はどんな感情でも、それが怒りなど負の感情でも、喜びでも、天に向ける。
それが、普通の人と行者の違い」

そう言った時の彼女の瞳には、夜空の星が瞬いているように見えました。
「天に負の感情を向ける」とはどういうことだろう。
それほどの感情を、私は世界に対して持ったことがあっただろうか。
私が学んで来たことと言えば、過剰な期待をしないことで、
自分の心を守ることぐらいだったのではないか。
誰かや何かに対して強く感情を持つことすら、
諦めるばかりだったのではないか。

このうたでラロンは、自らの絶望的な状況を嘆き、
天に救ってくれと訴えかけています。
しかしそこには、「それでも許される」「見捨てられることは無い」
という根本的な天への信頼感があるのだと、
パルバティ師の言葉を聞いて思い至りました。

それならばまずは私もラロンのように嘆くこと、
そしてそれでも受け容れられることを期待することから始めてみよう、と思いました。
インドでの仕事を辞め、日本に帰国してからも
繰り返し、このうたを歌いました。

これが、私がバウルの道に入ったきっかけです。

最初に夢見たインド

今、パルバティ師匠は西ベンガル州で
バウルの伝統を伝えるセンターを作っています。
それに伴い、私のインドでの拠点もそちらに移りました。
足かけ6年に渡り通い続けたケーララには、
中々行けなくなってしまいました。

けれども、目下建設中のこのセンターでは、
まだまだ滞在施設などのインフラが整っていません。
私たちが滞在する時は、最初はテントでしたが、
今年の始めからは、泥と竹で出来た小屋を使っています。

建設や様々な日々のメンテナンスのために働くのは、
周囲の村の村人達。
牛を飼い、野良犬だった2匹の犬達はすっかりここの犬になり、
生まれた子牛はこの犬達を兄や姉のように育ちました。
日中はあひる達がガァガァガヤガヤと歩き回っています。
土地の中心にある、池の周囲に生えているパパイヤの木から、
未熟な実は炒め物に、熟した実は果物として食べるためにもぎ取ります。

ふと気がつくと、私が最初に、
移住したいと思うほどに惹かれた「インド」に、今いるのでした。

今の私は、あの頃のように「ずっとインドに住みたい」
とは思わないし、
インドに通う目的も変わっています。

それでも、あの水浴びの体験から始まった旅路の続きに
確かに立っているようです。

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最初に、パロミタの自伝シリーズが11回に渡り配信されます。
もちろんお時間無いときはスルーしてくださいね、という前提なのでお気軽にどうぞ。

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